白鷺電気工業70年の歩み
代表取締役会長 沼田吉輝インタビュー
100年企業に向けて若き人財に託す思い
2017年、白鷺電気工業は70周年を迎え大きな節目として、30年後の100年企業に向けたビジョンを掲げ新たな取り組みが始動しています。沼田吉輝会長は68歳、白鷺電気工業と共に同じ時代を歩んで来られただけに、70周年という区切りは感慨深いものがあったのではないでしょうか。今日は白鷺電気工業の歴史を振り返りながら、今日までの歩みとそしてこれからについても語って頂きます。
激動の昭和と平成の初頭を駆け抜けた父の偉大な功績に感謝
御社が70周年を迎えられ、会長も68歳ということでほぼ会社と年齢が一緒でいらっしゃいます。今日は創業者で、父上の宇中さんのお話も交えて、会長のこれまでの歩みをお伺いしたいと思います。まずは創業当時の様子を宇中さんからお聞きになっていると思いますが、その頃の様子をお話し頂けますか。
沼田会長:実はこのインタビューがあるということで、当社の歴史を調べてみました。そうしたら面白いことがわかりましてね。当社は昭和22(1947)年、私が生まれる2年前に父、宇中が創業しました。それからちょうど会社が25周年の時、昭和47(1972)年になりますが私は当社に入社致しました。父が61歳、私が23歳の時でした。そして45周年、平成4(1992)年の時に私は父からバトンを受けて社長に就任しました。父が81歳、私が43歳でした。こうしてみると、当社の節目と私の転機が重なっています。今思えば、これも父の考えがあってのことでしょう。
父は81歳まで社長職についていましたが、私の厄が明けるまでは何とか自分が頑張ると言って続けたのです。本当にありがたいことです。
それから四年後84歳の時に父が他界しまして、残念ながら50周年には一年足りませんでした。生前、父とは50周年の時には盛大にお祝いしようと話していましたので、非常に残念でした。50周年の時は、社員と共に初めて海外旅行に行きましたが、それを父と果たせなかったのがとても心残りです。
それはとても残念でしたね。お父様のお人柄はいかがでしたか。
沼田会長:父はとても温厚な人でした。家族に対しても社員に対しても、私自身もあまり怒られたことは無かったですし、社員が仕事で失敗したとしても、おそらく怒ったことは無かったのではないでしょうか。怒るというより諭すということが当てはまる人でした。
宇中さんは、確か戦前に関西に行かれたと伺っていますが。
沼田会長:昭和8(1933)年頃に父は京都に行っております。父は熊本高等工業学校(現:熊本大学)の工学部を卒業していますので、その技術を生かして、現在の「関西電力」、当時の「京都電燈」に入社して、電力の技術を学び、変電所の建設や改良・修繕工事などを行っていました。
そして世の中の情勢が段々暗くなってきた昭和18(1943)年頃に、実家のある八代に帰ったと聞いています。帰郷して昭和22年に九州配電(現:九州電力)の柱上変圧器修理からスタートし、同時に当時の十条製紙・興国人絹・三楽酒造・日本窒素・中越パルプ・日本合成などの大きな工場の電気工事や変圧器・モーターの修理を行っていました。京都で技術を学び、さらにそれを生かし地元の大手企業の工場で技術のスキルを磨いていったのです。
その時の経験が、白鷺電気工業の起業へと導いていくんですね。
沼田会長:そうですね、父は本業では実に堅実な道を歩んでいます。ただ、昭和35(1960)年頃から約10年間ほど、電化製品の販売もしていました。高度成長期の真っ只中、テレビ、洗濯機、冷蔵庫と家電が各家庭に普及する頃です。でも、それを任されたのは母でした(笑)。父は本業の方で手一杯で、家電はノータッチ。母は祖母と農業もしていましたので、大変苦労したと思います。八代でい草を作っていましたから。
い草ですか、八代は名産地ですからね。でも、い草はとても手がかかりますよね。
沼田会長:そうなんですよね。母は夜なべしながら父を支えていました。私はそんな母の苦労も見て育ちました。白鷺電気工業の礎を築いたのは、母の力も大きかったと思っています。
若い頃に積んだ経験が道を切り開く
会長が白鷺電気工業に入社された時はどんな様子でしたか。
沼田会長:私は会社に入る前、1年間東京の浜松町の電気材料店で働いていました。これも父が家業の勉強になるという思いで、そこで働かせたんだと思います。
当時、浜松町から新橋までは、電気材料店がズラリと軒を並べていました。そこで営業のノウハウ、電気材料の商品知識や技術を学びました。現場に配達することも多くて、マンション建築中の現場で10階まで材料を担いで上ったこともありましたよ(笑)。今思えば、いい経験をさせていただきました。
私が白鷺電気工業に入社した昭和47(1972)年のころは、社員は確か60名前後しかいなかったと思います。最初に配属されたのは今でいう電設部で、その後昭和50年に、福岡の正興電機製作所という配電盤メーカーに2年間出向しました。そこではエンジニアリングサービス部門に配属され変電所・発電所などの遠制化や配電盤の改造作業などをしました。
そういう技術の仕事は経験とかは、ありましたか。
沼田会長:大学は文系でしたし資格も持っていませんので、仕事しながら覚えるしかありません。先輩の仕事を見て覚え、現場に入る前日には設計図を見て覚え、必死に勉強しました。
失敗もありましたね~(笑)。福岡のある地域の重要な変電所で作業をしていましたら、いきなりド~ンと、辺りが真っ暗。一体何が起きたのかさっぱり。つまり、私は大きな失敗をしてしまったんです。大事には至らなかったから今でこそ笑い話しにもなりますが、命が縮まる思いでした。そんな失敗もしながら、現場のこと、技術など多くを学ばせていただきました。
そこで2年近く経験を積んで白鷺電気工業に戻られたんですね。
沼田会長:戻りましてから、変電部と送電部と配属されまして3年間現場代理人として現場の仕事を経験しました。通信を除いてはすべて現場を体験させていただきました。現場経験を積み、その後経理に配属されることになりました。そして、昭和56(1981)年に本社が八代市から熊本市(旧本社:熊本市東区石原)に移転したのを期に、管理本部長を10年間担当することになりました。
懸命に学んだ財務のこと計らずとも、経営学の礎に
出向の仕事も含め、現場の仕事、経理、管理部と全てを体験されたのですね。当初から先代の宇中さんのお考えあってのことでしょうね。
沼田会長:私は沼田家の五男の末っ子で、私が当社に入ったころには長男と次男がすでに会社におりましたので、跡継ぎの重責もなく自由に無責任男を通していました(笑)。
しかし、さすがに管理本部長の役職に付いてからは、襟を正して奮闘をしました。当時は税務署から国税局の管轄に代わって、数年に1度は国税局の調査を受けるので、ずいぶんと勉強させていただきました。時には指導を受けながら、懸命に税の知識を習得することにしました。振り返ればその学びで、経営の基礎を学んだように思います。
会社が国税管轄になられたのはいつですか。
沼田会長:昭和58(1983)年、資本金8000万円を大阪中小企業投資育成会社に2000万円の出資を受け、資本金1億円になってから、管轄が国税局に代わりました。投資していただくことを決断したのは父でした。当時の当社のような零細企業の株主総会などあってないようなものですから、投資会社を入れて公認会計士のチェックを受けて、きちんと経営の是正をしたかったのでしょう。
年に1回、大阪に決算報告に行くのですが、父は必ず私を同行させました。そこで、経営のノウハウを大いに学んだわけです。さらに、投資会社から融資を受けることで大変な信用も得ることになります。当時、全国紙に白鷺電気工業が大阪中小企業投資育成会社より2000万円の出資を受けると載りましたからね。これは大きな信用で、取引先にも知れ渡り、経営もより安定してまいりました。
技術の育成と財務の是正、両輪への投資が無借金経営に
先代は高い技術力で信頼を得て、さらに財務面においても大きな信頼を獲得されたのですね。
沼田会長:おっしゃる通りです。技術面に関しましては、当時は九電さんから多いころは15名くらいの出向者・OBの方がいて、それぞれの分野のスペシャリストから技術を学ばせていただきました。もちろん、みなさん安全にも精通した方で一番大事な安全対策もしっかり習得し、その技術を得て社員たちは現場での信頼を積み重ねていきました。一方でマネジメント、資金繰り、財務等については肥後銀行出身の方や公認会計士に学び、その2本柱で会社を成長させていきました。
おかげでしっかりとした基盤を築き上げてくれたので、中小企業ながらずっと無借金経営ができています。本当に感謝しかありません。
今のお話と同じことを、息子さんの沼田幸広社長も言われていました。父が黒字経営の財務と素晴らしい人財、そして信用という強固な基盤を築いて、私に引き継いでくれたのでとても感謝していると。
沼田会長:そうですか、私が父から受け継いだ時と同じ気持ちであってくれれば嬉しいですね。まあ、父は八代から熊本に本社を移すときに、社屋を建てるために借金をしましたからとても苦労したと思います。でも、私に引き継ぐ時にはほとんど借金はありませんでした。改めて、父に感謝しています。
もちろん、先代のお力は大きいでしょうが、やはり会長が社長になられての手腕で、その後の黒字経営が続いたのでしょう。先代は本社を熊本に移された理由は、九電さんとの関係が大きかったですか。
沼田会長:それもあると思います、しかし一番大きな理由は公共工事の入札参加資格を得たるためです。八代が本社ですと、公共工事は県南の仕事しか入札できません。県庁所在地に本社を置くことで、県全域の入札に参加できるわけです。本社を熊本市に移してからは、数段に公共工事の仕事が延びました。
当時は田舎から都(熊本市)に上ると大変な逆風を受けるものですが、父の人徳なんでしょう。沼田さんが来るのであればと、多くの方に支援して頂きました。やはり、宇中さんは人格者でしたね。
常に感謝の心と自身を磨き高めること
そんな宇中さんから社長を引き継がれた時は、かなりプレッシャーもあったでしょうね。
沼田会長:先程も申しました様に、私が入社した時には、一回り年上の長男、6歳年上の次男が会社におりまして、私が社長に指名された時には、それぞれ専務と常務の役職に就いていましたので、初めは大変驚き、プレッシャーもありましたね。
でも、どうでしょう。先代は会長を大学卒業後、東京の電気材料店に就職させ、こちらに帰ってから福岡のメーカーに出向させたり、あるいは大阪への決算報告に同行をさせたりと、どこかで会長の器を見抜いて、将来像を早くから描いてらしたのではないでしょうか。
沼田会長:いやいや、器は全くありませんよ。ただ、父が親戚一同集まったときに一度だけ私を社長に選んだ理由を述べました。周りはどうして私なんだろうと思ってましたから。
父が言ったのは第1に「健康である」。第2に「運が強い」第3に「数字に明るい」第4に「公私混同をしない」第5に「友達が多い」この5つを上げました。父は常々、仕事は健康が一番というのがありましたから、私は兄たち比べて元気が良すぎたんでね(笑)。頭の出来はよくありませんでしたけど、財務と管理会計に関しては誰よりも勉強しましたから、父はそれも必要と考えたのかもしれません。人との付き合いも好きでしたからね。
先代は、ずっと社長のことを見てらしたんですね。
沼田会長:社長に就任して23年間、ずっと信条にしていることがあります。
「仕事は自分がしているのではなく、たくさんのご縁の中でさせて頂いている」という感謝の思いです。社長になったのも色々な巡りあわせと様々なご縁の中でのことだと思っています。もう一つは能力が乏しいだけにさせていただく仕事を一生懸命に、一心不乱に打ち込まなければならないということです。それによって周りの皆さまから沢山のご褒美をもらったという思いがします。それはwin-winの関係が成り立つお得意様であり、お得意様から育んでいた技術であり、人材であり、そしてそれから得られた健全な財務体質であります。
会長の日々の感謝と自身を磨き高める精神こそが、御社の今を築き上げたのかもしれませんね。社長に就任されて、やはり困難もありましたか。
沼田会長:もちろんありました。電力の部分自由化を控え、平成10年頃から徹底したコスト逓減策が講じられ、設備投資が大幅に抑制されました。その時、社員は140人ほど抱えていましたので、何も手を打たないと大変なことになると思い、事業の再構築を図るべく平成10年に関連会社「ファマックエグレット」を立ち上げ事業部門を広げ、社員にのれん分けして別会社を立ち上げてもらい、会社を少し身軽にしました。その判断をして良かったですよ。実際に平成10年から平成23年の間に、九電さんの仕事が約10億円下がり、その十数年間は苦しかったですね。
信頼で築いたネットワーク、多くの人に支えられて
会長の正しい判断で苦難を乗り越えられたんですね。
沼田会長:その間は福岡の九州電機製造会社(現:九電テクノシステムズ)に社員を出向させて技術を学ばせたりして、とにかく技術のスキルを上げることに力を注ぎました。そのような時に京都の日新電機様にご縁があって、当社の高い技術を評価してもらい、電力機器の設置工事や改修工事を九州全域から中国・四国、関西地方と任せて頂きました。そのおかげで平成26年に京都支社を開設するこができました。
宇中さんが見抜かれていた会長の持たれているネットワーク力が窮地を救ったのですね。また、売り上げが落ちて冬の時代を迎えた時にこそ、社員の更なる技術向上に力を注がれたことも正しい判断だったと思います。
ボランティア活動と認定特定非営利活動法人しらさぎの発足
御社はボランティア活動とも積極的に行ってらっしゃいますね。
沼田会長:はい。私たちの会社では高所作業の技術を活かして、平成11年から八代城跡の石垣清掃、平成20年からは水島の清掃を始めました。その活動範囲も広がり、熊本城とその周辺の石垣の清掃、西原村や南阿蘇村の水源涵養林の植林活動などを毎年行なっています。
平成19年にはNPOしらさぎを発足し、これからの活動をして通じて、子供たちの育成や、地域への貢献とそして何より自分自身の成長を目的として活動してます。長年継続しての社会貢献活動が実を結び平成27年、熊本市所轄の法人では初の認定NPO法人となりました。これらの活動もCSRの一貫として考えていまして、この事業に参加することで、企業経営や社員一人ひとりの成長につながるものと思います。
そうですね。今ほど企業の社会的責任を問われている時代はないですね。本当にいい活動をされていると思います。
技術と経営に精通する幸広社長にバトンを託して
社長を退かれ、幸広社長に引き継がれた経緯について、お聞かせください。
沼田会長:平成26(2014)年、幸広が38歳、私が65歳の時に社長を譲りました。みなさんから何でそんなに早く引き継ぐのか、まだ65歳でやれるのに、とよく尋ねられました。私は幸広が平成22年に入社して以来、仕事ぶりを冷静に見てまいりました。幸広は、電力全般の技術力、お客様管理やクレーム処理、危機管理能力など、経営全般に精通していました。入社する前は、JR東海にお世話になっていましたので、そこで実務を通して現場とマネジメントを学んできたようです。大きな組織ですので人をまとめる大変さや労働環境など、広域な勉強してきたんですね。
その経験もあって、現在幸広社長は働き方改革にも熱心なんですね。
沼田会長:東日本大震災の時、九州電力様は大変な逆風にさらされました。この間、全ての原子力発電所が止まり財務が危機的な状況に陥ったため、当社も2年間九電様からの工事が大幅に削減されました。かつてない事でした。その時に経営を支えたひとつが、太陽光発電の工事です。当社はメガソーラーEPC(設計・調達・建設)の技術を持っていましたので、多くのところから依頼がきました。メガソーラー分野の立ち上げにリーダーシップを取ったのが幸広でした。
しさらさぎエナジーの設立ですね。
沼田会長:しらさぎエナジーを設立は幸広の企画でした。JR東海時代に太陽光発電システムの勉強をしてきたようで、保守の経験もあって自信があったようです。おかげでしらさぎエナジーは順調に成長して、実績を残した幸広にもうバトンタッチしてもいいだろう、と私は判断しました。やはり、きちんと実績を残さないと周りが認めてくれませんからね。
確かに立派な実績を築かれましたね。幸広社長は、会長とはまた違った経営者としての手腕をお持ちですから。
目標を共有し英知を結集して幸福度NO.1企業の実現へ
沼田会長:幸広はとにかく新ビジネスや新しい技術に明るい。私はもう全然ついていけません(笑)。AIやIoTなどさっぱりわかりません。これからは技術革新が加速して進み、目まぐるしく社会は変化します。それに対応する組織の構築が大切です。若いもんは新技術の習得が早い、情報をキャッチするアンテナも持っています。さっさと若いものに任せて、時代の波に乗ってもらわないといけません。
会長はとても社員を大切にされて、今ある社内のアットホームな雰囲気も財産のひとつですね。
沼田会長:私は社員やその家族を大切にする温かさは育んできたつもりです。でも、最近の人には重荷になるのではないか、とも考えるわけです。しかし、当社のような中小企業は大企業と違って、家族的な付き合いができる環境にあります。社員に赤ちゃんが生まれたら病院に出向いて、赤ちゃんの顔を見て奥さんにおめでとう、と言いたいんです。
まあ、幸広は自分なりの温かな会社を継続してくれると思います。
先代の宇中さんの代から続いた社員を大切にする思いは、幸広社長にもきちんと引き継がれていますよ。
沼田会長:創業70周年の記念すべき時に、100周年の時の会社のありたい姿を掲げました。30年後は100億円を売り上げる、というとても高いハードルです。しかし、みんながベクトルを合わせ、先見対応力とバランス感覚を養い、リーダーシップを発揮して英知を結集すれば、必ず達成できるのではないかと考えています。当社にはそれだけの人財があると自負しております。当社は”幸福度NO.1の企業”を目指しています。白鷺電気工業を定年で退職する時「この会社に勤めて幸福な人生が送れた」と思える会社でありたいと願っています。それは、報酬が良くて、仕事が楽しく、社会の人間関係に温もりがあることです。これから100年企業を目指して、みんなで目標を共有して、しっかりと歩を進めれば、どこにも負けない幸福度NO.1の会社に成長すると信じております。その先に、100年企業として私たちの目指す姿が実現しているのだと思います。
今は白鷺電気工業の歴史を振り返り、貴重なお話を伺うことが出来ました。長時間ありがとうございました。最後に沼田会長の経験を通して、経営者として大切にしてこられた事をお伺いしたいと思います。
沼田会長:こちらこそ、こんな機会を作っていただいて、ありがとうございました。お陰様で改めて自分なりに一生懸命やって来たことを振り返ることが出来ました。最後にまた難しい質問をいただきました(笑)。私が言うのもおこがましいですが、また経営者に必要なことはいくつもあると思いますが、あえて端的にリーダーの条件を上げるとすれば、愛情、強いリーダーシップ、先見対応力、そしてバランス感覚ではないでしょうか。リーダーにとって永遠のテーマだと思います。
常に社会のお役に立ち続けることが出来るしらさぎグループを目指して、幸広社長を始め社員の皆んなのチャレンジしてが始まりました。しらさぎの未来が本当に楽しみです。